訳の変更について

マタイ13章24節 

毒麦→雑草

2024年8月27日火曜日

隠れたことを見ておられるあなたの父は、「公然と」報いて下さるであろう。

 マタイ6章には、KJVにしかない、いや、NTからわざわざ削除されているキリストの教えがある。いくつか存在にする。

その一つが、マタイ6章の祈りについてである。

私たちは、祈りについて、どのように祈れば必ず答えられるかをなかなか確信を得られずにいる。理由は、方法論が確立されておらず、また、祈りを答えて下さる方である神様からの確証を得られていないからである。

マタイ6章には、4節、6節に、「openly]明らかに、公然と答えて下さると言っている。

条件は、「秘密に」ということである。秘密に祈れば答えられ、公に祈れば答えられないという、

Mat 6:3  あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 

Mat 6:4  それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 

Mat 6:4  That thine alms may be in secret: and thy Father which seeth in secret himself shall reward thee openly. 
Mat 6:6  But thou, when thou prayest, enter into thy closet, and when thou hast shut thy door, pray to thy Father which is in secret; and thy Father which seeth in secret shall reward thee openly. 

明らかに答えられることは、人の前でもわかるような答えられ方をするということである。すなわち、この世でも答えられる。
ガラテヤ書にも同様のことが書いてある。
Gal 6:7  まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 
Gal 6:8  すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 
Gal 6:9  わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 

「施し」や「善」は、この世でしかすることができない。
天国では何かを不足している人や、困窮しているは一人もいない。
この世で行う善「困っている人、不足している人」に経済的にも、物質的にも、精神的にも援助を行うことである。そうすれば、「この世」でも公然と答えられる。
善を行うことは、この世で益を得るための投資であるともみることができる。
隠れたところで「善を」行うべきである。



2024年8月26日月曜日

 使徒行伝を詠むと、一つの傾向がある。それは、イエスキリストの神の子としての神性を表す 名称を執拗に何ヵ所にわたって否定し、神の僕と言い換えていることである。

他にも存在するが、要するにネストレアーラントでは、イエスキリストの神性ではなく、人性を強調したいのである。

もしそうならば、ヨハネの最後にある、イエスを神のこキリストであることを信じ、それによって命を得るためである。という言葉は空文化してしまう、もしくは読む者の確信を弱めることが目的であると思うのは勘ぐりすぎであろうか。