訳の変更について

マタイ13章24節 

毒麦→雑草

2024年12月19日木曜日

隠れたことを見ておられるあなたの父は、「公然と」報いて下さるであろう。

 マタイ6章には、KJVにしかない、いや、NTからわざわざ削除されているキリストの教えがある。いくつか存在にする。

その一つが、マタイ6章の祈りについてである。

私たちは、祈りについて、どのように祈れば必ず答えられるかをなかなか確信を得られずにいる。理由は、方法論が確立されておらず、また、祈りを答えて下さる方である神様からの確証を得られていないからである。

マタイ6章には、4節、6節に、「openly]明らかに、公然と答えて下さると言っている。

条件は、「秘密に」ということである。秘密に祈れば答えられ、公に祈れば答えられないという、

Mat 6:3  あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 

Mat 6:4  それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 

Mat 6:4  That thine alms may be in secret: and thy Father which seeth in secret himself shall reward thee openly. 
Mat 6:6  But thou, when thou prayest, enter into thy closet, and when thou hast shut thy door, pray to thy Father which is in secret; and thy Father which seeth in secret shall reward thee openly. 

明らかに答えられることは、人の前でもわかるような答えられ方をするということである。すなわち、この世でも答えられる。
ガラテヤ書にも同様のことが書いてある。
Gal 6:7  まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 
Gal 6:8  すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 
Gal 6:9  わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 

「施し」や「善」は、この世でしかすることができない。
天国では何かを不足している人や、困窮しているは一人もいない。
この世で行う善「困っている人、不足している人」に経済的にも、物質的にも、精神的にも援助を行うことである。そうすれば、「この世」でも公然と答えられる。
善を行うことは、この世で益を得るための投資であるともみることができる。
隠れたところで「善を」行うべきである。



2024年11月29日金曜日

ネストレアラントとキングジェームズ

 使徒行伝を詠むと、一つの傾向がある。それは、イエスキリストの神の子としての神性を表す 名称を執拗に何ヵ所にわたって否定し、神の僕と言い換えていることである。

他にも存在するが、要するにネストレアーラントでは、イエスキリストの神性ではなく、人性を強調したいのである。

もしそうならば、ヨハネの最後にある、イエスを神のこキリストであることを信じ、それによって命を得るためである。という言葉は空文化してしまう、もしくは読む者の確信を弱めることが目的であると思うのは勘ぐりすぎであろうか。

2024年3月22日金曜日

 

マタイによる福音書(UBD

MATTHEWmathu;主の賜物)アルファヨと呼ばれるある人物の息子。レビと呼ばれた(Mark2:14;Luke5:27



彼の居住地

マタイの住居はカペルナウムにあった。そして、彼は、「徴税請負人」であった。当時、ゲネサレ湖の沿岸には非常に多くの人々が住んでおり、漁業が生計の源であり、またその湖面は海上交通で混雑していた。マタイが徴税請負人をしていたカペルナウムの税関はローマ帝国によって確立された。本来の徴税請負人たちはローマ人の金持ちたちであったが、彼らは居住民を配当人(portitors)と呼ばれる人々を代理人にして職務を代行させた。マタイはこのような人々に属する。

マタイの召し

マタイについては、次のように記述されている。「取税所に座っていた」彼に、イエスが「私に従ってきなさい」と言われた。多分、彼はあらかじめイエスを知っていた。なぜなら、彼は、「すぐに立ち上がって」彼に従って行った、とあるからである。(Matt.9.9;Mark2:14;Luke5:27-28

この後まもなくマタイは「自分の家で彼のために盛大に宴会を催した」(Luke5:29;Matt.9:10;Mark2:15)そして、それは彼の昔ながらの仲間たちに別れを告げるためであった。なぜなら、「多くの徴税請負人たちや、罪びとたちが来て晩餐の席についていた」とある。(Matt.9:10

この後のことについては、我々は使徒の名簿(Luke6:15)と、主が昇天された後、エルサレムの2階にいた(Acts1:13)でのこと以外には、彼についての記述を見ることがない。

古代からの証によれば、彼の名に負うところのこの福音書はこの使徒によって書かれたのである。伝説によれば、マタイは主の昇天の後、12年から15年間ユダヤで福音を宣教した後、他の国々に行ったのである。

AB

福音の意味は、「良きおとずれ」、又は、「喜ばしい知らせ」である。それは一般的にこのメッセージそれ自体を示している。しかし、ここでは、このメッセージを含む記録についての書として用いられている。

新約聖書の著者の称号として用いられている「聖徒」という言葉は、ローマ・カトリックに由来するが、何の権威もない。

一般的には、マタイは最初彼の母語である、パレスティナの言語で書いたということが、かなり信じられている。その言語は純粋のへブル語ではなく、へブル語と、カルディア語と、シリア語との混成言語であり、普通、「Syro-Chaldaic」または、「Aramean

と呼ばれるものである。私たちの救い主は、疑いなくこの言語を会話にお使いになっていた。そして、彼の弟子たちもまた、この言語を自然に使い、他の言語を用いて書くのに良い理由がなければならない場合を除いて、この言語を用いていたのである。

新約聖書で残存しているものはギリシャ語のものであることは、承認されている。

 

マタイ福音書

序章      メシアなるイエス(HBH

マタイが特に強調する点は、イエスが旧約の預言者たちによってあらかじめ語られたメシアであるということである。マタイは繰り返し繰り返し旧約聖書から引用する。ユダヤ人読者を特に意識していたからであろう。この福音書は「天の御国」という言葉を非常に多く繰り返しているので、天国の福音とまで呼ばれている。全部とは言えないが、年代順よりもむしろ題目順に主な事件が集められている。イエスの説教、特に「山上の説教」「再臨と終末の教え」はすべて収録されている。

マタイ

この福音書に著者の名は出ていない。しかしパピアス(使徒ヨハネの弟子)に始まる初代教父の時代以来、使徒マタイの作と認められている。

マタイについてはほとんど何もわからない。彼はレビとも呼ばれた。十二使徒の名があげられている4つの記録は、どれも彼の名を記している。(マタイ10:3,マルコ3:18,ルカ6:15、使徒1:13)その他には彼がイエスの召命を受けた時の記事があるだけである。

Mat.9:9-13;Mark2:14-17;Luk5:27-32

マタイが自分について語っている唯一の言葉は、恥を意味する「取税人」という言葉であった。取税人はローマの税金徴収者であるが、多くは搾取を常習としていたので、一般の人々から軽蔑されていた。ルカの福音書には、マタイがイエスのために宴会を催し、イエスに従うために一切を捨てたとある。しかし、マタイはそれを自力でしたとは思っていない。彼は英雄に対する崇敬の念から我を忘れたのである。この我を忘れた謙遜さのゆえに、我々は彼を愛するのである。

また、このような人を「全世界で最も広く読まれた本」だというこの福音書の著者として選ばれた神の恵みに驚嘆する。

伝承ではマタイは幾年かをパレスティナで宣教し、その後諸外国を旅行した。彼はその福音書を最初はヘブル語で書き、幾年か後に、多分60年頃、さらに完全なギリシャ語の福音書として世に出したという。しかし本書を記した事の人類に与えた貢献はいかに大きかった事か。

マタイは取税人という職業で記録を取る事に慣れていたし、イエスの公生涯の間、個人的な接触があった。マタイがマルコの福音書から取材したという、広く行き渡った確証のない仮定は、明らかに馬鹿げた説である。マルコがイエスを知っていたかどうかは、確かではない。マタイはなぜ自分の目で見たり、自分の耳で聞いたりしたことを、目撃者でもない者の記録から取材しなければならないのか。